前回、こんな記事を書きました。
4月、娘は学校に行くのが不安で、なかなか子どもたちだけで登校することができませんでした。靴箱までついていっても泣く…。
当時の私にとって一番の悩みでした。
昨日、娘は一人で登校することが不安で、初めは私と離れようとしませんでした。
でも私の悩みにはならなかった。
その違いは、一体どこにあるのでしょうか。
毎年この時期になると一斉に咲き出し、また一年経ったんだなと感じます。
「4月」と「今」の違い
4月と今、状況は似ています。
”どちらも娘が不安がっている。”
では、何が違うかというと『私の考え方・心構え』です。
4月の私:娘が学校へ行けないこと、不安がっていることに対して「何で行けないの?」
→娘が不安がっている状況そのものを受け入れられない。
今の私:娘が学校へ行くことを不安がっていることに対して「そういう現実があるのみ!」
→目の前の現実をそのまま受け入れ、その上で自分ができることを考えている。
現実に起こったことへの捉え方が、前と今とでは全く違います。
悩みの原因
そう考えると、以前の悩みは私自身が作り出したものでした。
「元気に学校へ行ってほしい。」
「小学生は子どもだけで歩いて学校へ行くもの。」
そういう私の期待・理想があったからこそ、それとは違う状況を受け入れられませんでした。
悩みの原因は、私が目の前の現実をそのまま受け入れられないことにありました。
私は、現実を見ているようで、実は自分の期待・理想という色眼鏡で娘を見ていたのです。
友人との忘れられない会話
昨年、娘と同級生の女の子をもつ友人との会話で、印象的だったことがあります。当時子どもたちは年長。
友人いわく「もうね、(娘は)参観に行っても手振らないよ~。終わっても全くしゃべらないし。先日パパ(友人の旦那さん)が参観に行ったとき、(わが子のそんな様子を見て)びっくりしてた~」と。
私はそれを聞いたとき「(もし娘が同じことしたら)私だったらショックだけど、〇〇ちゃんはそうじゃないの?」と聞きました。
すると友人は「これも成長かな~と思って」と。
友人は子どもを丸ごと受け入れているのに対し、私は自分の理想を娘に求めていました。
同じ現実であっても、人によって『ただの現実』にもなるし、『悩みの原因』にもなるのです。
おわりに
悩みの原因は、目の前の現実をありのまま受け入れられないことにあります。
現実を全てありのままに受け入れられたら、起こることはもはや『悩み』ではなくなります。
でも、だからといってすぐに理想や期待を取り除き、現実を丸ごと受け入れられるかといえばそうではありません。なりたい自分と現実の自分との間に必ず葛藤があります。
それが人間の面白いところでもあります。
でもやっぱり悩みは少ない方がいい。
- こうあるべきという自分の期待を押し付けていないか?
- こうあってほしいという自分の理想が強すぎないか?
自分を客観的に見れるようになると、少しずつ、少しずつ悩みが少なくなります。
昨日学校から帰ってきた娘に、朝どうだった?と聞くと、
「うーん、まあまあ。」と(笑)「怖かった」とも。
あんなに元気いっぱいに見えたのに、心の中ではまだ娘なりに葛藤していたんですね。
今朝は「一人じゃなくてよかった~」と学校へ行きました^^
お読みいただきありがとうございました